家庭内ヒエラルキーについて
元夫はこの国でかなりヒエラルキーのトップにいたのでは?と思った。
大卒、ヘテロ、自国籍、高身長、高収入、20代。
いや、そんなことはわかっていたはずだけど、私と元夫との間にある不公平感は、「働いている人」と「専業主婦」という構造からくるのだと思っていた。目に見える違いといえば収入があるかないかというだけで、問題の原因をいつもそこに集約しようとしていた。学歴にはほぼ大差なく、同い年で、どこかで同志のように思っていたところがある。
同志なのになぜわかりあえないんだろう、といつももどかしかった。
でも現実は、同志とは全然違って、相手は社会的には圧倒的に強者だ。
私は収入のない女子で、圧倒的強者とは言い難い。
2人の間の収入格差で不公平が生じるだけではなく、生活そのものがすでに共有できることが少なかった。
彼はホモソーシャルのお手本のようなマッチョなコミュニティーでマジョリティを存分い謳歌していた。女性といえば花を添えるだの、賑やかしだのと悪びれもなく言っているような人たちといつも一緒にいた。
なんか違うと思うと同時に悪い気はしなかった。同時に傷ついてもいた。
それでも同じ土俵にいると思っていたし、私の生きづらさは話せば理解してもらえるし、理解してくれないのは、相手の向き合い方が足りないからだと思っていた。
向き合い方どころか、生きづらいのは自分と相手の人間性のせいだと思っていた。
社会的な構造に目がいくことはなかった。
そもそもの立ち位置が全然違った。
そのことに某書評を読んで思い至ったのだけど、彼は強者だったというのがしっくりきている。
強者たる彼のそばにいることで安心していたのだし、そこに自分を投影していたし、その振る舞いに吸い寄せられていたのではなかったか。同時に強者たる振る舞いが我慢ならなかったし、強者だからこそ彼は浅はかでいられたのではないか。
当たり前だと思って疑うこともしなかった関係性の歪みが、いまも、この生活にもはびこっていて、別のことの結果として現れれているかもしれない。