オリンピック・パラリンピックと、結婚末期の共通点。
最近のオリパラを見ていると、結婚末期を思い出す。
相手の行動発言すべてが、予想外の、しかもこちらの気持ちを逆なでするところからやってくる。
よくも、まぁ、ことがうまく運ばない方法を、次から次に選ぶことができるな、と不思議なぐらい。
毎回傷つき穏やかではいられないのを繰り返し、呆れる。
結果、関わるのをやめるという「離婚」からの、疎遠。そしてようやく穏やかな日々がやってくる。
ここのところのオリンピックとパラリンピックの動きを見ていると、次から次に気持ちを逆なでするようなニュースが飛び込んでくる。よくも、まあ、ここまで徹底して不快にすることをチョイスできるなぁ、と呆れる。
この感じ、結婚末期と同じだ。懐かしい。
思うに、「共通認識の崩壊」がどちらにもあるのだろう。
関係性を築く上で、初歩的な根本的な部分での思いのズレが、もはやつなぎとめられないところまできている。
「なんのために」という目的とか、「こういうもの」という定義の部分が、共通していない。
結婚の場合は、生活していくうちに形を変えて少しずつ修正したりカスタマイズしていくものなのだろう。一方が頑なに変わることを拒んだり、変化を受け入れなかったら次第にずれてくる。
また、大きな環境の変化や気持ちの変化があるたびにすり合わせることをしていかないと、気付いた時には取り返しがつかないところまできている。
または、変化とともにそもそも目的を失ってしまうこともあるかもしれない。「独身の方がいいな」とか。
それに、冷静に考えたらそもそもの考えを訂正したい気持ちになるかもしれない。
うちの場合は全部によって、共通認識は崩壊していた。
そして、何もかもが穏やかではいられないやりとりによって、崩壊を目の当たりにする。
オリパラの場合は、主催したい側と、それを享受する人たちとの認識のズレが、もはや隠しきれなくなっているのではないかしら。
オリンピックはただのスポーツ大会にはない複数の意味合いがあるらしい。
「復興五輪」と言っていたように、スポーツ大会だけど復興もできる、らしい。
聖火リレーがあることにも何か意味合いがあるのだろう。
開会式や閉会式にもそれぞれコンセプトがあるらしい。
意味合いや社会的役割が膨らみすぎていることも結婚に似ている。
この結末はどこへ行くのだろう。
オリンピックにおける離婚、平穏な日々は何を意味するんだろ?