編み込む日常

30代半ばでシングルマザーになりました

子育てには若いパパの力が必要か?

「子どもは若いうちがいい。男性の妊活に年齢的制限はないけれど、体力があるうちの方が絶対にいい」という意見を見てもやもやしている。

 

娘が一歳の時に別居して、結婚中も元夫は非協力的だったことから、娘が生まれてからほとんどずっとワンオペだった。結果、なんとかやってこれた。若い男性のパワーがなくても育児はなんとかなってるし、どの道なるようにしかならない。

結婚中は、夫がいるにも関わらず自分1人でやっていることの不公平感がいつもあったが、離婚して1人でやると決めてからは、ベビーカーで坂道を登ることも、バスや電車に乗ることも、男手があったらなぁ、とはほとんど思わなかった。なくてもなんとかなる。 不便な造りのビルへの不満は多々あったけれど。

ベビーカーで街を歩くとき、力持ちのパートナーがいれば楽だったかもしれないけれど、それは私にとってみれば「もう少し背が高ければなぁ」とか「父親がトムクルーズだったらなぁ」という願望に近い。もしそうだったらあり得る不都合のことは無視して、一瞬よぎる願望という程度。なくてもなんとかなる。私は結婚が向いていなかったので誰かと育児をすることの方が難易度が高いことは想像ができる。よく考えれば今の方が良い。

父親はトムクルーズじゃなくていいし、パパは若くて力持ちじゃなくてもいい。もっと言えば困ったときに力を発揮するのは、パートナーでなくてもいい。

ワンオペでなんとかやってこれているのは、折に触れて助けてくれる周りのおかげだ。

 

ある時、エレベーターのない駅のホームの階段を、ベビーカーを抱えて登ろうと階段を見上げて気合いをいれていたところ、バッグパックを背負った旅行者らしい彫りの深い男性がこちらを見てニコッと微笑んだかたと思ったら、ひょいとベビーカー持ち上げて上まで運んでくれた。
さりげなくスムーズでスマートな動きに驚いきながら、男性の後ろから階段をついて登り「ありがとう!」と慌てて言った。その男性はまたニコッと微笑んで去って行った。その淀みのない動作が「当たり前のことをしただけ」と本当に思っているだろうことを表していて、感動した。

ベビーカーで子どもを連れていると、助けてもらうことはよくあった。電車の乗り降りの時、ホームと電車のちょっとした高さの違いと隙間が難しい。ベビーカーの後ろからぐっと体重をかけて前輪を上げて電車に乗る。その時、すでに乗っている人がベビーカーの前から少し持ち上げてくれると驚くほど楽に乗ることができる。見ず知らずの人が、ベビーカーを持ち上げてくれるというのは度々あった。ほんの一瞬のことだけれど、それだけでびっくりするほど楽なのだ。

もう娘はベビーカーを卒業したので、そういう大変さはなくなったけれど、ベビーカーで電車に乗ろうとしている人がいたら、手伝おうと心に決めた。

 

何が言いたいかというと、父親は若くて力持ちでなくても全然いいし、なんなら父親がいなくてもなんとかやれている、ということ。

若い男性の力がないと子どもが育てづらいなんて、極論を言えば力を持つものが過ごしやすい社会を認めることになる。

力を持っているかどうかは、快適に暮らすことに何も関係がない社会をどうしても目指したい。

そこには条件があって、育児にパワーが必要なのは確かだから、今では親がやって当たり前とされていることも、周りの人がもっともっと手を貸していくようになればいいと思う。自然と手助けをすることがもっと浸透していったらいい。

あのバッグパックの男性のさりげない行動の先には、1人でも育てにくさを感じない社会が一瞬見える気がした。