「愛を与えることができる」と暗示をかける女、それは私。
いつも自分で口に出して言うと決めていることがある。
「私は愛を与えることができる」
「仲間を大切にする」
の2つだ。
毎日自分に暗示をかけている。あやしいやつである。
ふたつとも、普段の私を知る人だったら「は?」と思うかもしれない。
アラフォーになって色々なことに諦めがつき、また若い頃の恥じらいや自意識が剥がれていくのを感じる。
そして、残った私は、できないと思うより、できると思ったほうが、得じゃないか?!と図々しくも悟った。
私は、愛情を与えられるような大それた存在じゃないし、私なんかに愛情をもらっても迷惑だと思うし、、、と20代の自尊心低めな私は思っていた。
でもアラフォーになると、残り時間も見えてくるし、そんなこと思っていても誰も得をしない、と気づいた。
唯一、恥じらう私だけが守られる。
でもそんなものを守ってどんな意味があるだろう?
ふたつ目の言葉も、20代の私とは縁遠い言葉だ。
仲間というものが苦手で、1人でいることの方が好きだ。それは今も変わらない。
それなのに「仲間を大切にする」と毎日暗示をかけるようになったのは発端は、父への反発心からきている。
とにかく、父親のような働き方はしない、と思ってここまでやってきた。父親のことをよく知るようになったのも、そして言語化できるようになったのも、ここ最近のことだ。
父と私は本当によく似ている。
父には仕事仲間と言える人がいるのだろうか?
いたとしても娘の私の目には見えない。
そして父はいつも母と私を相手に、たいそう偉そうに批評を述べる。それは全く格好悪いのだ。ああはなりたくないと思ったときに、父親に足りないのは、好きなことを好きと言える仲間なのではないかと思った。
好きなことについて語り合える仲間なのではないか。
そう思って暗示をかけるように「仲間を大切にする」と言うようになった。
1人で好きなことをしているうちに、一緒に楽しく仕事をする人が少しずつ増えてきた。
その人たちのことを私は勝手に仲間と呼ぶことにした。
私は仲間を大切にする。
そして、父親とは違う生き方をするのだ。
アラフォーの反抗期は厄介だ。