0620_暮らしをカスタマイズする。用意されたものは強制の空気を醸し出す。
本格的に暑くなる前に、私も娘も大好きなベランダで朝食をとる。
素敵なバルコニーではなく、よくある賃貸マンションの狭いベランダで、床はグレーのゴム製、排水溝は剥き出し、エアコンの室外機が大きな顔をして並んでいる。
室外機の上にはジョウロや雑巾をつい置きっ放しにしてしまう。
柵の部分にはホームセンターで買った網の目隠しをかけている。
というおしゃれとは程遠いベランダだ。
ベランダピクニックの準備をするのはいつも娘の役だ。
レジャーシートを敷こうと外にいる娘から「ママー!すごい!来て!」と呼ばれて何事かと思って向かえば、「雲がすごいスピードで動いてる!」と。
ほんとだ。
雨の予報だったが今のところは降り出さず、代わりに灰色の雲が薄く引き伸ばされて風に流されている。
うん。すごいね。
それに、これに興奮する君に感心するよ。
ベランダにレジャーシートを敷いて、簡易テーブルを立ててピクニックをはじめる。
ベランダ栽培で取れたミニトマトと小松菜を使ったサラダを食べる。
食べ終わった後も、ベランダにおもちゃを持ち込んでしばらく遊んでいた。
もうあと2週間もすれば夏の暑さがやってきて、こんな風に過ごすことができなくなる。
今週が最後かな、来週またできるかどうか。
と呟くと、「じゃあ次は秋だね。」と娘が言う。
そう思うと一年が恐ろしく早くすぎて行く。
ベランダに座って下から見るトウモロコシの葉は、曇りの日の弱い太陽に照らされても黄緑色に透き通っている。
細長く伸びた葉がゆるく捻れているのを指でなぞる。
植物たちはちょうどよい距離感の他者で、いつも自分との違いに関心する。
葉も茎も見ていて飽きない。
虫が嫌いだけど、ベランダで植物を育てるようになって「虫が嫌いではない。」と自分に暗示をかけるようにした。そうすると意外といけると今は思っている。
触るのは嫌だし好きにるとは到底思えないけれど、なんてことはないやつだと、思うことぐらいはできている。暗示にかかっている。
娘はトイレに行くと言って部屋に入る。ベランダに戻るなり「トイレの電気が暗い」と不満を言っている。目が太陽に慣れて、電気が暗く感じるんだよと伝えると、へぇ。と不思議そうに頷く。
午後は隣駅に住む祖父母に会いに行くことになっている。そのことを伝えると、ピクニックを終わらせる気になったようだ。
食器をキッチンに運び、レジャーシートを拭く。1人でテーブルを運べることで得意になった娘はテーブルを畳んでしまっている。
すっかり出かける気分になっている娘に急かされて、食器洗いや残りの家事は後回しにすることにした。
食器を洗い残していることも、洗濯物を残していることも、見ないふりをすることが得意だ。明日できることは明日やればいい。
お皿を洗っていなくても暮らしは充分である。
食べたらすかさず食器を綺麗に洗い、キッチンを清潔に保つことで、自分は価値があると思おうとしていた頃がある。
今はそう思わなくてもいい。
そんなことしなくても、誰に何を言われるわけではないし、何を思われるわけでもない。
いや、誰かに何かを言われたことなんてないのに、専業主婦の私はそれこそが存在理由だと自分で思い込んでいた。
働く能力のない自分はそれぐらいやらなければならない、と自分を当てはめていた。
まず、私は働く能力がなかったわけではなかった。
向いている働き方を探そうとしなかっただけで、探せることを知らなかっただけだ。
働くことができいないからといって、家事が向いているとは限らない。
何事も少しずつ自分が心地よい方向に軌道修正して、カスタマイズしてくことができる。
仕事も軌道修正を繰り返しながら、少しでも働きやすい方向へ。
暮らしも、ネットやSNSで見る正解のようなものに自分を近づけることで存在価値を見いだすのではなく、自分の最適解を探し続ける。
そのことで今は心地よさと落ち着きを得ることができた。
最適解は、自分にしかわからない。
自分に心地いいものがわかり始めると、カスタマイズするその作業が楽しくなる。
ベランダで過ごすことが定着しつつあるので、もう少し柔らかいレジャーシートでも買おうかと、「ベランダ ピクニック」と検索すると、それはそれはおしゃれな写真ばずらりと並ぶ。
わあ。こんなチェアがあったらいいよね。こんなランタンあったら夜も楽しそう。
と心惹かれるも、次の瞬間ページを閉じる。
また罠に引っ掛かりそうだった。
ベランダが硬いのなら、膝掛けでもたたんで敷けばよい。
クッションを持ち込めばよい。
準備されすぎたものが、場を白けさせるのだ。
用意されたものがそのほんのりとした強制の雰囲気を醸し出し、一気に覚めてしまう。
思いついた時に、あるものでできることをやるのが一番自分には合っている。