編み込む日常

30代半ばでシングルマザーになりました

ゴミ屋敷と魔女の宅急便

ゴミ屋敷と言われる部屋が片付けられていく動画を見るのが好きだ。

先日見た動画では、飲みかけの同じ銘柄の缶ビールが部屋の半分を占めていた。

積み上がる空き缶というだけでも圧巻なのに、それは殆どが、ビールが少し残った状態らしい。

その状態にますます心を掴まれてしまう。

もう飲みたくない、でも捨てるのはもったいない。その先の判断と行動が難しいくらい何かに疲れていたのではないか。

 

山のようになった空き缶を見て、社会の教科書で学んだ貝塚を思い出す。

もしここの住人が縄文時代を生きていたら、ゴミ屋敷だなんて言われずに、普通に生きていたのだろう。

食べたり飲んだりしたものはその包装を種類別に分けて居住空間には目に入らないように隠す。そして決められた日時に決められた場所へ持っていく。

これがとても難しいと感じる時がある。

今のところ私の家には人がよく出入りするので苦手な片付けを時間をかけてやってはいるけれど、たまたまこの状態でいるだけだと感じる。

 

ゴミ屋敷の住人は別のタイミングを生きている自分のような気がする。

何かのバランスが変わったら私はいつでもあちら側にいる可能性がある。

 

 

魔女の宅急便」を読んでいる。

映画も書籍もとても好きだ。そこに書かれているシンプルで物事があるべき場所へ収まっているような暮らしが羨ましく、ワクワクすると同時に2度と手に入らないものを目の前にして、ずっと悲しい。このようにどうして生きられなかったのだろうか?と自分の複雑化した暮らしと比べてしまう。

今の時代に、この、触れるものでやりとりをするような生々しい暮らしを送ることは、もうできないのだろう。

 

縄文時代から児童書を経て、自分の首をしめている今の複雑さをどうにか解く手立てはないかと考えている。

結婚と自己顕示欲の柱で生きてきた。

とにかく結婚が目標だった。

結婚願望が強いかどうか考えたこともない。それほど当たり前で大前提だった。

いずれ結婚する。そして私の周囲にいたような母親たちのように暮らすのだと思っていた。
私の母は専業主婦で、学校が終わり友達の家に行くと専業主婦のお母さんがいた。いつも周りには「お母さん」であり「奥さん」である大人の女の人がいた。

結婚をしている人はよく見ている。

結婚をしていない大人の女の人の暮らしはあまり知らない。

思春期になると、母親への疑問や反抗心もあったけれど、とは言ってもそうではない女性の暮らしは見たことがない。

 

仕事をしているお母さんならたまには見たことがある。

でも結婚をしていない女の人と言ったらもう、映画や漫画の中の話だ。

書きながら思い出したけれど、小学校の家庭科専任の先生は独身だった。
彼女は当時の母親よりも少し年配だったように思う。
猫と妹と暮らしている、と言っていた。
彼女の分厚いメガネと、濃いベージュのストッキングの中で潰され乱れたすね毛をよく覚えている。

10代までに出会った結婚していない女性はそれぐらいだった。

 

 

それに加えて自己顕示欲のお化けのような人間だった。今もそうだ。

人に一目置かれたくて仕方がない。

人から一目置かれたいのに、性格的に競争心は皆無。
大抵は妄想の中で人に羨ましいがられてほくほくと脳汁をたらすような自分でもそんな子がクラスにいても友達になりたくないタイプの人間だ。

それは今も変わっていない。

カッコ悪いことをすることが何よりも嫌で、人前で批判されることや失敗することが何よりも嫌だった。大学は実力が目に見える形で明らかになるので、相当にカッコわるかった。

そこで私は高給取りの彼氏と付き合い、銀座の高級なバーや料理屋さんについれて行ってもらい、自己顕示欲を満たしていた。
彼氏はとても優しく、わがまま放題の私にできるだけ答えようとしてくれて、お姫様扱いをされて私はますます鼻高々なのだった。

学生の身分でそんな彼氏がいることに自己顕示欲は満たされ、同時にその付き合いの先にはもう一つの柱である結婚も視野に入っていた。

 

そして、自己顕示欲と結婚という二本の柱が合致した。

 

そうなると何も迷いがない。この道を進むことだけであった。

勉強や仕事にはますます興味がなくなる。目標が達成されようとしているからだ。

人生いっちょあがりのはずだった。

 

いっちょあがり感を味わうことができただけでも当時の彼氏であり元夫には感謝しなければならない。

 

そして結婚は、残念ながらというか当然ながらというか、うまくいかなかった。

こうやって書いているとこんな薄っぺらな人間とよく結婚してくれたものだと思う。

 

結婚はそれまで生きてきた中ではじめて経験する「いずれ結婚するのだし」という逃げが通用しない暮らしだった。

人生勉強そのものだった。

そして結婚してからはじめて気が付いた。

結婚について何も知らなかったのに、なぜ目標にしていたのか。

結婚しないという選択肢が謎すぎて、選ぶことができなかったからではなかったか。

私が結婚を選んだのは、ただ流されたからであり、わからない方を選ばない消去法だったとも言えるのではないか。

 

 

 

私が子ども時代を過ごした約30年前。

私の周りの子どもたちもほとんど同じ環境と条件だったように見えるのに、なぜ何かに一生懸命になれたり、将来の仕事を見つけることができたのだろうか?

私にはできなかった。

 

私のような愚鈍な人間は、流れ流され、与えられた環境の中で小さな楽しみを見つけて暮らすことが向いている。

割とそれが得意な方だったはずだ。

だからこそ、ここまで流されてやってきたのだ。

それなのにもう一つの厄介な柱である自己顕示欲が生き生きと私の中で脈打つので、「結婚」と折り合いをつけて、のらりくらりとやっていくことができなかった。

 

愚鈍でややこしい人間がシングルマザーという流れに乗ることになった。

当初の柱は、一本失っている。

もう一本の柱は残念ながら衰えを知らない。

そうして仕事の合間に飽く事なくこんな文章を書き、恥を晒している。

 

あの頃も今も同じことをしている。

離婚を経て生活は随分と変わったし、日常を覆う気分は180度違うものになった。

でも細かいことを見てみるとやっていることは大して変わっていない。

 

例えば植物を育てること。

 

結婚していた頃、高層マンションの狭いベランダは夏になると向日葵だらけになっていた。

もらった苗を育て、そこから取れたタネを次の年も植えた。またその次の年も同じようにした。夏になるとベランダいっぱいに向日葵が咲いた。

 

今はトマトを育てている。

苗を買ってくればいいものの、タネから育てたものだからものすごい数になってしまった。間引くのもかわいそうで、鉢と土をそれぞれ用意して向日葵の時のようにベランダいっぱい鉢で埋め尽くされている。

 

あの頃と同じようなことをやっているとふと気がついて可笑しくなる。

あの頃覚えた趣味なのか、それとも、もともと私という人間の趣向なのかわからない。

相変わらず私は同じ植物を同時にたくさん育てる女である。

 

もう一つ変わらないのは、裁縫をすることだ。

裁縫という趣味も妊活中に覚えたもの。時間ができたら思う存分ミシンをしたい。

作るものは決まってバッグだ。袋やバッグの類しか作る気がしない。

これと決まったらそればかりやる。

 

そのほか本をポツポツと読むことや、気に入った音楽を繰り返しきくことも変わらない。

落ち着いて作業をしたいときは雨音をアプリで聞くことはここ1年で覚えたことだ。

 

 

アラフォーになり自分を癒す方法も随分と引き出しが増えてきているということかもしれない。 

 

こんなに気分は変わったのに、やっていることはびっくりするほど同じだ。

きっと10年後も20年後も生きてたら同じことをしているのだろうな。

その時を私を覆っている気分も今ぐらい穏やかだといいな。

清々しさと、心許なさ。

昨日の夜から降っている雨で、どんよりした朝だった。

ちょっとした傷が重なった6月後半。天気につられて気分もずっしり重かった。

 

自分の指針を信じてここまで来ているけれどこのままで大丈夫だろうか。

でも「こうしなければ」で動いた時に、

好きなことをやっていきている人を見たて感じる悲しい気持ち、抱いた嫉妬。怒り。

 

例えば、彼氏の趣味に合わせてそこまで好きではない服を選んで着ていたのに、彼の趣味が変わっって、どちらかというともともと自分の好きなテイストだった時。

「私、本当はそっちなんですけどーーー!!」と叫びたい感じ。

でも今更、遅くて、「え、全然違くない?」と言われた時の、「時間を返してくれー!」という心の叫び。

 

社会だってそうだ。

「今の世の中これじゃ生きていけないから、こうしなきゃ」

で生き方を寄せたのに、時間が経って時代が流れて、

「今の時代はこうだよね」

ってなって、いや、私がもともとそれやりたかったことなんですがー!ってなっても誰も責任とってくれない。

時代や世の中に合わせて生きても誰も責任をとってくれない。

それは変わっていくことが常だから。

 

自分を基準に生きていけば、世の中の流れとは外れてしまっても自分が満足しているから誰に不満も抱かない。

そのうち行き詰まるかもしれないけれど。

社会に合わせたところで、行き詰まらないとも限らない。

同じ行き詰まりなら、自分基準で行ったほうが納得がいく。

行き詰まるまでの間、心地よい時間を過ごしたことは何にも変えられない。

 

我慢して過ごした時間は耐えた時間。

自分で選んで過ごした時間1分ずつに宝物になる。

 

自分でやりたいことをやる以外の道はなし。

 

 

と思って勝手に歩いている道は、思いの外快適であり、孤独でもある。

寂しいとは違う。

広大で緑豊かな高原をひとりで歩いているような清々しさと心許なさが同時にある。

1人だからこそ清々しい。清々しさと同居する心許なさ。

心許ないから清々しい。

表裏一体の状態で、時々心許なさが勝ったりして、もうこのままでは歩けないとうずくまることもがあるのも事実。

それでもまた今日みたいに朝はどんよりとした空でも昼から晴れたりして、それだけで気分も良くなって、その輝かしさにまた歩くことができたりする。

その繰り返し。

 

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マルトリートメント

泳ぐことが好きで区民プールによく行く。娘はプール教室には通う時間はないけれど泳げるようになって欲しい。
小さい頃から水が好きで、不定期ながら区民プールに通っているといまではクロールを泳げるようになってきた。

先日区民プールに行くと、同じように子供を連れて泳ぎを教えに来ている親子がいた。息継ぎをしながら泳いでいる小学生低学年ほどの男の子の側で大声をあげている母親がいた。

「手伸ばして!足忘れてる!」

ひどく熱心な親だなという程度に思っていたけれど、次第にヒートアップしていく。「全然ダメ!そんなやり方ならプールもうやめて!帰るよ!全然できてない!」眉間にしわを寄せて目を見開き怒鳴る。
「手伸ばして!全然できてない!」

その怒声はプール中に響き渡っていた。

私たちがいた2時間弱、その男の子は必死に泳ぎ続け、母親は怒鳴り続けていた。

途中2回ほど「今のいいよ」と落ち着いた声で子どもに言ったように聞こえた。

手はあげていない。
子どもを貶すような罵声はない。
うちの子どもと、その男の子がぶつかりそうになった時はお互いに謝った。

全く冷静を欠いているわけではないようだ。

 

だとしたら、これが日常なのだろうか。

 

2時間同じプールにいただけで、あのけたたましい怒鳴り声が耳に残って離れない。

帰り道、バスを降りる動きが遅れた娘にかけた自分の声が一瞬、ほんのりとあの母親の色を帯びたような気がしゾッとした。

たったの2時間同じ空間にいただけでも私の脳は存分に影響を受けていた。

 

あの必死で泳いでいた子どもは、どんな気持ちだろう?

ゴーグルで顔は見えなかった。怒鳴られても反論せず、一度も彼の声は聞こえなかった。

ただ一生懸命泳いで、小学生用プールを必死に往復していた。

 

母親も一生懸命なのはわかる。

 

でも、彼女の張り上げた声と、ひどく歪んでつり上がった眉毛は心に焼き付いている。

それは私の呼吸を浅くするし、心臓がキュッとする。

 

 

 

 

家に帰り気になって調べてみると、虐待よりも広い範囲の「避けるべき困った子育て」のことを「マルトリートメント」というらしい。

自分が子育て中にも関わらず、初めてきく言葉だった。

ひどい暴行という極端な虐待ではないけれど「しつけと称した脅しや暴言」などを含めたもので、これを受けた子どもは脳が萎縮や肥大など、部分的に変化し「傷」がつくらしい。

昼間に区民プールで遭遇したあれは、確実にマルトリートメント だ。目撃した場合は児童福祉機関への速やかな相談が必要だった。

気になりながらも何も行動しなかったことが悔やまれる。

 

あの男の子は今、深呼吸ができているだろうか。

穏やかな気持ちで過ごせる時間が1分でも長く過ごせているといい。

インターネットの芳しい森の中。

ここのところいつも仕事のために本を読んでばかりで、関連のないものを読んでいなかったことに気がついた。知識を与えてくれる本は刺激的で、ひとつ読み終えると次につながる欲しい本が自然と目の前に現れる。いや、Amazonがお勧めするか、ツイッターでフォローしている人が勧めている。

実に沢山のものに次から次に勧められる。手当たり次第買っていては身が持たないので、お気に入りにしたり、カゴに入れたりして、機が熟した頃合いで購入する。それはとても興味深く、たいていはいい出会いなのだが、気がつけば偏った本ばかり読んでいるのではないか。

 

仕事と寝る時間と娘といる時間以外はほとんどインターネットの森の中にいる。いや、仕事でもインターネットの中にいることがある。

 

費やした時間分その道の筋力がつくとして、今や私はプロのインターネッターとなっている。毎日毎日、プロのインターネッターになるべく鍛え訓練しているようなものだ。報酬はない。私が望んでその立場になったことになっている。私の時間を使って自分の意思で入ったインターネットの森である。

プロと言えば聞こえは良いが要するに格好のカモである。

消費者道をつきすすんでいるのではないか。勧められるままに購入しているわけではないし、自分なりに賢く利用しているつもりではあるが、それもまたプロの道である。

 

問題は、その道を極めたいと思ったことは一度もないことだ。

森の芳しい香りに引き寄せられ気がつけば森深く足を入れている。

目が覚めると無意識にその香りを思い出し、手が伸びる。はじめのうちに求めていたものは芳しい香りの源なのに、いつのまにかそんなことは忘れている。森に散りばめられた魅惑のものに気を取られているうちに時間が歪んだように過ぎている。

そのうち、芳しい香りさえどうでも良くなる。森の中に入れば魅惑のワクワクがあるのでは、と脳が覚えており、ほとんど無意識に足が向かい手が伸びる。

 

そうなりたいと望んだことは一度もないのに!鍛えたい筋力なら他にいくらでもあるのに!

 

そのことに愕然としてパソコンのふたを閉じ、久しぶりに本棚を漁る。お気に入りの詩集を2冊と、タイトルに惹かれて買ったものの絵を眺めただけで読んでいなかった児童書を手に取り、ソファに横になって読む。

ああ、この作家さん好きだなぁ。新刊出してないかなぁ、とスマホに手が伸びる。完全に病気である。

出会いの「凶くじ」を木に括る。

トーストの朝ごはんを食べ、残り物で作ったパスタを昼ごはんに食べる。夕飯には娘のリクエストでまたパスタを作る。実に気まぐれな一日であった。

ほとんどの時間をパソコンの前で過ごし、猫背が日に日にひどくなる。時々思いついたように伸びをして、首を左右に曲げると、立て付けの悪い扉のようにギシギシと音がする。1年前にはこんな音はしなかったと思うんだけど。さすがアラフォー。

家からほとんど出歩くことがなくなり、お尻もたるみきっている。歩くことは好きだけれど、目的地がないと家から出ない。仕事が一区切りついたら散歩に行くことを楽しみにしているが一区切りなんてついたことがない。

やり残したことを強制終了して娘の学童に迎えに行くのがいつもの流れだ。

 

好きなことを仕事にして、どんどんわがままが加速している。好きな仕事の中にも様々な作業があって、とても好きなことと、苦手なことがある。

苦手なのは人とたくさん会わなければいけない時間。人に会うことは「くじ」のようなもので、楽しい時間になるのか、はたまた苦痛になるのか、行ってみないことにはわからない。運に任せるのみ。

稀に話が合って心地よい時間を過ごすことができると、それだけで3日は興奮して覚醒し、落ち着いてからも1週間は余韻を楽しむことができる。

反対に苦しい会合となるとそれを1週間は引きずる。我ながらしつこい。

牛のように物事を反芻するくせをやめたいが、反芻しなければ起きたことを処理できないらしい。

大吉のような時間があるから、全く人に会いたくないとは思わないけれど、なるべく苦しい「くじ」が当たらないように暮らしたい。先日は運悪く苦しい「くじ」に当たってしまってそれはもう疲弊して、もう二度と人間はごめんだとしばらく殻にこもるのである。

こういう凶を引いてしまった時に、さっと身を引いて、おみくじよろしく手際よくその縁を木に括り、パンパンと小気味好い音を鳴らして手を合わせ、華麗に立ち去ることができればどれだけいいだろう。私にはまだそれだけの勇気と経済力がない。

いやしかし、最近室内でのみ武装に成功している図々しさ(暗示)を持ってすれば、それが可能になる日も遠くないのでは。自己暗示の訓練はまだまだ続くのである。